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シリーズ・アリオリ◆アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ 1
一人暮らしをはじめて三年目のある金曜日の朝。料理番組みたいにリズミカルに包丁が使えるようになった。
昨日までどうしてできなかったのかも、今朝どうして突然できるようになったのかも分からないけど、目玉焼きにつけあわせるきゅうりを切ろうと思ったら手が自然に動いていた。
補助輪なしの自転車に初めて乗れた時みたいに、脳でシナプスがぴぴぴっとつながったらしい。
誰かに見せたい。自慢したい。でも「なーんだ、今までできなかったんだ」って思われるのはしゃくだな。これを見せびらかすために(いないけど)彼氏を家に呼びたい。意外に家庭的だね、なんて言われちゃったりしてね。彼氏といちゃいちゃする妄想をしてたら、目の前のガラスに映った顔がにやついてたからあわてて顔をひきしめた。通勤電車の中だった。
駅から会社へ向かう道で、前を歩く人のスーツに見覚えがあることに気付いた。同期の|六ッ川(むつかわ)君の偶数スーツだ。|六ッ川健(むつかわたけし)、通称むっちゃんはスーツを二着持っていて、一日交代で着ている。私は密かにそれを偶数スーツと奇数スーツと呼んでいる。
「むっちゃん、おはよう」
「おはよう。由美子ちゃんってにんにく好き?」
「うん」
今日はなんだか野菜に縁がある日らしい。
「これ、何か分かる?」
そう言ってむっちゃんは、持っていた紙袋から、白い皮に包まれたにんにくでぱんぱんに膨らんだビニール袋を取り出して私に見せた。
「どしたの? にんにくでしょ?」
「うん、にんにくはにんにくだけど生にんにく。あげるよ。日持ちしないからこっちでは売ってないだろ」
「こっちじゃないならどこで売ってるの?」
「青森。法事で実家帰ってたんだ」
「そうなんだ。確かに生にんにく売ってるのは見たことない。これ、高いんじゃない?」
外国産のにんにくはよく何個もまとめてネットに詰めて売ってるけど、国産にんにくといえばひとつでいくらの値札がついているものだ。目で見積もった限りでは、スーパーでは万札を出さないと買えなそうな分量だった。
「これはバラけてて売り物にならない奴なんだ。家にいっぱいあったから」
そう言われてよく見れば、ぎゅっとまとまっているはずの球根はひしゃげていたり、一部が欠け落ちたりしていた。使う分には全く問題はないけど、確かに売るにはちょっと見栄えが悪いかも。
「本当にもらっちゃっていいのー? ありがとう。じゃあ女の子で分けるね。むっちゃんちで作ってるんだ。むっちゃんって長男?」
ついそこをチェックしてしまうのは独身女性の脊髄反射みたいなもので他意はない。
「冷や飯食いの次男。実家は兄貴が継いでる」
「お兄さん偉いねえ」
「うん。俺ほんとに兄貴のこと尊敬してる」
私の軽い相槌に答えたむっちゃんの真剣な口調に、思いがけず好感をもった。
昼休みに外へ出て、ファスナー付きの保存バッグを買ってきた。給湯コーナーで、貰ったにんにくを適当に分けてキッチンペーパーに包んでいたら、通りすがりの同僚、アッキーに声をかけられた。
「由美子、何やる気出してるのよ。どうしたの、そのにんにく」
「むっちゃんの実家で作ったにんにく、生なんだって。このフロアの女の子って十七人でよかったよね」
「うん。わーい、国産にんにく嬉しい。外国産は安いけど、やっぱり香りが違う気がするんだ」
アッキーがにんにくをひとかけら拾って、強烈な香りを吸い込んだ。
「これ食べてアッキーも彼氏とめくるめく夜を過ごしてよね」
「いやーん、照れるぅ。じゃあ胃袋からがっつり押さえ込んで」
「ベッドにもつれこむと」
二人でうしうしと下品な笑い方をしていたら、営業の鈴木さんが横を通った。
「相変わらず肉食系だなぁ」
「鈴木さんも持って帰る? でもあんまり元気になりすぎると和美ちゃんに嫌がられるかもよ」
鈴木さんは社内結婚なのでよく皆にネタにされる。本人も慣れたもので照れもしないで答えた。
「にんにくでも食べて元気つけないと。子どもの夜泣きが激しくてさ。和美は昼間寝られるからいいけど、俺はもう辛くって」
「そこは共同責任ということで我慢しようよ。ほら、これあげるから。六ッ川君の実家で作ったんだって」
そう言って保存法を書いたメモつきで、保存バッグにいれたにんにくを手渡した。
「六ッ川は農家の息子か。確かにあいつ素朴な感じだよな。長男?」
「次男」
「さすがだなぁ、由美子ちゃんチェック厳しい」
即答した私に向かって、鈴木さんは笑いながら言った。
そういう意味でチェックしてるわけじゃないんだけど。
フロアの女子全員に配った生にんにくのお礼を言いに、入れ替わり立ち替わりやってくる女子と話すむっちゃんを、改めてチェックした。
見た目はまあ、普通だ。なるほど東北出身らしい色白だけど、ずっと野球をやってたとかでインドア派には見えない。背がちょっと低いのは、座ってる分には気にならない。性格の方はといえば――
ちゃんと私が保存法をネットで調べて印刷してつけてあるのに、むっちゃんはそれはもう丁寧に一人一人に生にんにくは日持ちしないからと食べ方や保存法を説明していた。もともとスーツを一日交代で着てくるような几帳面な奴ではあるんだけど、その時のむっちゃんはしっかりにんにく農家の息子の顔になっていた。
(アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ)
ふっと、そんな言葉が頭に浮かんだ。にんにくとオリーブ油、それにとうがらし。それだけで作る素朴でシンプルなパスタだ。むっちゃんって、そんな感じ。
アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノを作って、むっちゃんに食べさせたい。そう思ったら、今朝の電車で妄想した彼氏の顔がむっちゃんになっていた。
「由美子ちゃん、ありがとう。俺、一日でこんなに女の子と喋ったの初めてだよ」
コピーを取っていた私のところにむっちゃんがにこにこしながら近づいてきてそんなふうに言うから、思わずふきだした。
「感謝するとこ、そこかよっ」
「男子校出身だからさ。大学も学部に三人しか女の子いなかったし」
その言い訳に、もういちど笑った。笑いに任せて言った。
「ああ、むっちゃんにあのにんにく使ったパスタ、おなか一杯食べさせてあげたいな」
「本当に? 今日?」
自分から言い出しておいて、いざむっちゃんに迫られたら慌ててしまった。今朝あとにしてきた室内のカオスが脳裏をよぎった。……とても男を呼べる状態じゃないっ。
「今日じゃなくてっ――明日の土曜日は?」
「ああ、明日から俺、出張なんだ」
むっちゃんはとても残念そうな顔をした。
今日って言っちゃいなよ。
どこからか私をそそのかす声がする。
「じゃあ、やっぱり今日っ」
気付いたら私は、そう口にしていた。
むっちゃんが、にかっと笑顔になった。
大掃除をしに早退したいくらいだったのに、普段より忙しくて残業まであった。定時を過ぎると営業マンが仕事を持ち帰ってくるから、営業事務の私は会社にいればいるほど仕事が増えるのだ。社内に残っていたむっちゃんはそんな私の様子を見て、行き先ボードに明日からの出張予定を書いて周囲に帰りの挨拶をして、さっさといなくなった。
うそっ。
すぐに机に入れたスマホがぶるぶると震えた。こっそりと机の下で画面を覗くとむっちゃんからだった。
『どこかで時間つぶしてるから連絡して』
短い文章を読み終えて気付いたら、スマホを持った手に汗をかいていた。
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