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胃痛の原因とその治療 1
始業15分前
束縛の理由とその帰結 1

胃痛の原因とその治療◆1

「あれー、どうしたの? うさちゃん、ご飯それだけ?」
 社員食堂で本日の定食を半分食べて箸をおいたら、二つ上の由美子先輩が驚いたようにそう言った。
「ええ、ちょっと胃が痛くて」
「どうしたの? 風邪?」
「いえ、仕事が忙しいせいで、多分」
「あの席じゃストレス溜まるよねー」
 先輩の追及はそれで逃れたけど、本当の原因はとても人に言えない。胃痛はこの二週間ずっと続いていて、私は食事のたびに人体実験をしている気分だった。これは大丈夫、これは駄目、これは脂が駄目、これは少しなら大丈夫……。

 食事を終えて、各自が飲み物を用意して午後の仕事に備え、それぞれ席についた。皆はディスペンサーから出るコーヒーや紅茶、ココア。私はこの二週間持ち込みのハーブティーをポットのお湯で淹れて飲んでいた。
「うさちゃん、何かいい匂いするなぁ」
 本田さんの席の後ろを通ったら、そう声をかけられた。
「ハーブティーです」
「ハーブティーって、匂いはいいけどなんか枯れ草っぽい味がしない?」
「枯れ草は食べたことないから分かりません」
 笑いながらそう答えると、本田さんも笑って答えた。
「うん、俺も食べたことはない」
 本田さんは私の二つ隣の席に座っている。五年目の営業さんだ。こんなことは人に言えないけど、多分私に気がある。具体的に何があるわけじゃないけど、通りすがりにこうやって声をかけられたり、飲み会でさりげなく隣に座られたりというわかりにくいアプローチをされてる。わかりにくすぎてこちらも対応が難しい。

 ふっと、右肩で人の気配を感じた。
「あ、すみません」
 昼食から戻ってきた営業の高井さんだった。私が彼の席の前で立ち話をしていたために、邪魔をしてしまった。高井さんは返事をせず、無言で会釈をして自分の席に座った。
 私と本田さんの間に座っているこの人が、私の胃痛の原因だった。

 唇が厚い人は情に厚いというけど、それなら唇が薄い高井さんは情が薄いということになるんだろうか。
 そんなことを考えながら、いつものように高井さんの横顔を盗み見た。

 午後になって電話が増えてきた。
 基本的に電話は全員が取ることになっているけど、男の人の中には新聞を読んでるのに目の前で鳴ってる電話を放っておく人もいるので、私は電話を取っては保留にして取次ぎを叫び、また次の電話に出て、自分の前にある伝票の処理がなかなか捗らなかった。
「うさちゃん、俺、何番? どっから?」
「あっ、えーっと……何番でしたっけ」
 自分が保留にした内線は緑のランプが点く。私の目の前の電話では四つの緑ランプがぴかぴかして、最初に保留にしたのが何番だったかがもう分からなくなってしまった。
「津久田さんは三番、スカイ商事さんです」
 そこへ高井さんが、電話を切った受話器を肩に挟んだまま横から言ってくれた。津久田さんは高井さんに片手を挙げて、三番を取った。私の前の点滅が一つ消えた。
「宇佐美さん」
 きたっ、私はぴくっと身じろぎして次の言葉を待った。
「どんどん電話取るのはいいけど、どれがどれか分からなくなっちゃうんだったら、取った内線の番号と相手の名前メモしてから次の電話取った方がいい」
「はい。気をつけます」
「あなたが一生懸命なのは分かるけどさ、焦りすぎて仕事が増えてる」
「はい」
 私はこの課に入ってからずっと課長以下全員から「うさちゃん」と呼ばれていたけど、二週間前に異動で来た高井さんだけは私を「宇佐美さん」または「あなた」と呼ぶ。丁寧な呼び方に何故か距離を感じるのは、笑顔でないせいだろうか。仕事中の高井さんが漂わせるものすごくキリキリした雰囲気も重なって、私は高井さんに話しかけられるたびにびくびくと緊張している。

 人と話すときは相手の目を見る。でもにらみつけるみたいになってはいけないからネクタイの結び目や鼻あたりを見るといい。
 就活の時に面接の心得でそう教わったけど、高井さんと話す時は見つめ返す自信がなくて、意図しなくてもつい視線が下に逃げてしまう。必然的に私の視線が向かうのは高井さんの薄い唇になる。

 三年前に本社の事業部に異動した六年目の高井さんが、戻ってうちの課に入ると聞いて、入社一年目の私はもちろん会うのは初めてだったから、どんな人なんだろうとかなり楽しみにしていた。
 なにせ先輩から聞いた評判が「同期の出世頭」「同期の中で一番女にモテる」「新人の時、当時の総務の女の子達が高井さんの取り合いをした」というようなものだったのだ。

 それが、会った途端に言われたのが「また新人か」だったから、私の膨らんだ期待は音を立ててしぼんでしまった。
 うちの部はだいたい課長がお誕生日席、その脇が営業事務の私達女子社員、そこからは年次の順に並んで座ることになっている。(おそらく課長に呼ばれた時に走る距離とか上座下座とかが関係してるんだろう)六年目の高井さんが来て、五年目の本田さんは私の隣から一つずれた。

高井さんはマイ雑巾を用意して毎日自分で机を拭いている。帰る前には書類も全部机から下げて引き出しに仕舞うので、隣の本田さんのファイルは寄りかかる先をなくしていつも雪崩れを起こしそうになっている。

「きっと他人とエッチするのも不潔だから自分で処理してんじゃない」
 そんなことを言うのは由美子先輩だ。
「えー、そこまで潔癖かどうかは知りませんよ?」
「でもいつもぴしっとした格好してんじゃない。上あの格好のままで彼女に奉仕させたりしてね」
 由美子先輩の話は面白いけどたいていは下ネタだ。あんまり笑うと後で男の人から「うさちゃんそんな顔してすけべだね」と冷やかされたりするので、本当はあまり人のいるところで大声で話して欲しくはないのだけど、由美子先輩には『人が聞いてようがいまいが笑うあんたがすけべなだけ』だそうだ。
「あの情の薄そうな唇からして、淡白……いや、逆に細かいからしつこかったりして」
 高井さんのそんな時の姿は、私にはどうにも想像できなかった。由美子先輩の想像力はある意味ですごいと思う。

 高井さんが着任して半月以上も過ぎてから、ようやく課の歓迎会が開かれた。皆の出張が重なったりして全員揃うのが今日になってしまったからだ。
「はい、じゃあビール回して」
「高井君、おかえり。これからまた一緒にがんばろう。かんぱーい」
 課長の音頭で皆がグラスを上げて涼やかな音が鳴った。
「あれ? うさちゃん、飲まないの?」
 乾杯のグラスに口だけつけて、ウーロンハイのウーロン茶を横取りした私に本田さんがそう問いかけた。
「ええ、ちょっと胃が痛くて」
「高井がいじめるからだろ、うさちゃんびびってるもんな」
「別にいじめられてませんよぅ」
「別にいじめてません」
 主任の横槍に私と高井さんが同時に反応した。私にだって分かってる。高井さんの言うことはいじめじゃなくて、正しいアドバイスだ。ただちょっと言い方がきついだけ、横でキリキリ働かれて私が勝手にプレッシャーを感じてるだけだ。
「まあ高井も新入社員の頃はよくびびらされてたよな。その頃は今よりずっと怖い先輩がいてさ……」
 主任が思い出話を始めたので、私はこっそり高井さんの顔を横目で眺めた。高井さんがびびらされるって想像つかない。
 視線を感じたのか高井さんが私をまともに見つめたので、私は顔を熱くして目を伏せ、意味なくウーロン茶のグラスを覗き込んだ。
「高井も飲んでないなぁ。お前、酒弱くなったのか?」
 気持ちよく語っていた主任が高井さんのグラスに目をやった。縁まであったビールの泡が消えただけで、一口だけ飲んだ私のグラスと残ったビールの量はほとんど変わらない。
「明日も仕事ですから」
 そういえば高井さんは引き継ぎ資料の整理のため、明日休日出勤の申請を出していた。酔ったら少しは変わるのかと期待していたのに、普段と全く変わりないようだった。赤い顔をした賑やかな皆の中で、私と高井さんだけが素面で無口だった。

 二次会は全員でカラオケに移動した。その席で本田さんがマイクを握りエコーをきかせて叫んだ。
「うさちゃん、明日ひまー?」
「へっ? 何ですか?」
「俺とデートしようー!」
「ええーっ?」
 私が慌ててきょろきょろしていると、一次会で本田さんの隣だった鈴木さんが私に笑いながら言った。
「本田さん、うさちゃんと席が離れちゃってさびしいんだって」
「うさちゃん、暇だったら付き合ってやってくれよ」
 皆が口々にそう口添えするので、断れなくなってしまった。なし崩しに明日は本田さんと映画に行くということになって、その場で上映時間を皆が調べ、待ち合わせ場所まで皆で決めてしまった。
 どうしよう。別に映画に行くくらいなら構わないといえば構わないんだけど、皆の前で言わないで欲しかった。悩む時間も、誰かに相談する時間もなく決まってしまったデートに、私は本田さんの堂々としているようでずるいやり方を少しうらんだ。
「やったー! 明日はうさちゃんとデートだー! うさちゃん、明日は髪の毛うさぎ結びね!」
「ええーっ」
 皆で駅まで歩く帰り道にそんな希望まで出されてしまった。

 翌日、待ち合わせ場所に行ったら本田さんが待っていた。密かに他の人も来てるんじゃないかと予想してたけど、それはさすがになかった。
「わー、うさちゃん! やっぱり似合うなー、うさぎ結び」
「恥ずかしいです」
 小さい頃はトレードマークだったツインテールも、大学に入ってからはさすがに子どもっぽくてしなくなっていた。ずいぶん久しぶりにしてみて、化粧をした顔には似合わないと自分では思ったのに、本田さんは大喜びだった。

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