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優しい花 1
別バージョン1
家に帰ろう 1

優しい花◆1

※泥酔描写および産婦人科関係のテーマが苦手な方は閲覧をお控え下さい。
プロローグ
「喉渇いた」
 そう呟くと唇にストローが当てられた。冷たい水を二口飲んでから、薄く目を開けた。ぼやけた視界の真ん中に、同僚の津野の顔が見えた。私は急いで目を閉じた。
「これは夢。これは夢。これは夢」
「起きろ、斉藤。夢じゃない」
「いや、きっと夢」
「……やっぱり何にも覚えてないか」
 津野は溜息まじりにひとりごとのような言葉をはいた。私はおそるおそる津野に訊いた。
「……やっちゃった?」
「『やった』とか言うな」
 
1.
「それで、あの、どのような事態が起きたんでしょうか」
 知らず知らず敬語になる。体は重たくて指一本動かせない感じだけど、気持ちだけは正座してるつもりだ。
「事実を簡潔に話すぞ。一応部長連中のタクシー見送りまでは無事だった。頑張ったな。潰れたのは俺と二人になってからだ」
 課長以上の飲み会だった。新しく来た部長がねちっこく絡んでやたら飲まされた。人を『女課長』と呼んでセクハラまがいのことを色々言ったので頭に来て飲み比べたのは覚えてるが最後の方の記憶が欠けている。
「人前で潰れたことなかったんだけどな」
「タクシーに深々と頭を下げて見送った後、顔を上げていきなりお前が吐いた」
「……」
「仕方ないので二人でラブホに入った。一応お前も同意してる」
「その時点でタクシーで送るとかいう選択はなかったんでしょうか」
「タクシーは吐いて服まで汚れた客は乗せない」
「失礼。続けて」
「お前の服を脱がせて寝かせて、服は洗っておいた。まだ乾いてない。ということで俺たちはここにいる。お前がいろいろやらかしたことは確かだが、俺はまだおいしい思いはあんまりしてない。ついでに飲み比べはお前が勝った。以上」
 
2.
 どうやら夢じゃないらしい。あれだ。低レベルの臨死体験。確かそんな本が出てたっけ。そろそろと頭を起こすと、とたんに吐き気が襲ってきた。
「気持ち悪い」
「ほい」
 目の前に洗面器を出された。情けなくて涙が出た。
「さすがにもう吐くものないみたいだなぁ」
 胃から上がってくるものはなかった。ただこの胃の奥からわきあがるアルコール臭がたまらなく辛い。津野が背中をさすりながら明るく慰めてくれた。こいつはいい奴だけどデリカシーというものを望んではいけないらしい。
「安心しろよ。お前酒しか飲んでなかったから吐いたのほとんど逆流した酒……」
「やめてっ」
 情けなさより主に苦しさで泣きながら顔を上げ、またベッドに横たわった。
「アルコール分解するまで寝てろ」
「津野。帰っていいよ。ごめん」
「気にすんなよ。俺、介抱得意なんだ。飲み会で女の子の寝ゲロ、手で集めたこともあるから」
「お願いだからもうそういう話しないで」
 
3.
 津野はベッドサイドに座ってテレビを見たり携帯を見たりしながら時間を過ごし、少し寝ると言って私の隣にもぐりこんで昼寝までした。私に断る権利はない。なにせ津野が寝不足なのはどうやら私が原因らしいから。
 私は数時間おき位に起き上がっては吐き気に襲われてベッドに戻り、ようやく起き上がれるようになった時には時計は午後の三時を回っていた。
 おそるおそる上半身を起こし、吐き気やめまいが起こらないことを確かめて今度はベッドの脇に立った。部屋の空気が酒臭い。全身が酒臭い。かすかに吐いたものの臭いもするような気がする。体をくんくん嗅いでいたら津野が起きた。
「窓開けていい?あとシャワー浴びてくる」
「ああ。風呂場に洗ったもの干してあるから、入る前に外に出せよ」
 なんだか所帯くさい注意を受けて浴室に入った。かけてあった服がまだ生乾きなのを確かめてから外に出し、髪と体を洗った。口を開けてシャワーで口の中まで洗った。
 
 さて、どうするかな、この後。
 
4.
 津野は私と同じ33歳で独身。総務課長。経理課長の私とは隣の島に座っている。常にお嫁さん募集中と言ってるが、実際は女子社員が迫ると「若い子は苦手」とかで逃げ腰になるらしい。これは女子トイレの噂で聞いたから信憑性は乏しいが、真実のような気がした。元々おせっかいなほど親切な奴なのは仕事上でもよく知っていた。同い年なのもあり、気軽に話ができる同僚として親しくはしてるがそれ以上でもそれ以下でもない。
 しかしやはり大人の男だ。ここまできて何もなしで帰りましょうと言ってあっさり説得されてくれるだろうか。
 
「おい。大丈夫か?」
 いきなり浴室のドアが開けられた。普通はきゃあっと言って恥らうべきだと思ったが私はとっさにそういう行動がとれない方だ。結果、素のまま津野を見つめて固まった。
「また気分悪くなったんじゃないのか?いつまでも出てこないから……」
 津野はあくまでも介護者として心配して来てくれたらしい。
「大丈夫。今出るからそこ閉めて」
「あっ、ああ。分かった。ごめん」
 私が冷静に答えると、津野が赤くなってドアを閉めた。
 
5.
 髪を乾かしてから部屋に戻ると、津野がベッドに座っていた。
「斉藤」
 名前を呼ばれて、津野の前に立った。さっきまで着てた変なバスローブは脱いで、バスタオルを巻いた姿だった。津野は私を見上げて言った。
「弱みにつけこんでいいかな。駄目なら駄目って言っていいから」
 ずいぶんと弱気ねとつっこんでやろうかと思ったけど声が掠れて出なかった。代わりに違うことを言い直した。
「今日だけね。口止め料」
「うん」
「あと私、上手じゃないからごめんね」
「いいよ」
 そう言って津野が私を抱き寄せた。
 
 津野は器用だった。いつも会社でこまごまとした備品の修理をしてはさすが総務課長と周囲から賞賛されていた。こういう場でもその器用さは生かされていた。
「斉藤、一応聞くけど初めてじゃないよな」
「違う。……久しぶりだから、ちょっと緊張してるだけ」
「お前、彼氏とかいないの?」
「いたらこんなことしてないよ。津野は?」
「いない」
「よかった」
 
6.
 私は津野の前に一人しか知らないから前の人と比べるしかないけど、津野は前の人より上手かった。私を気遣いながらもぐいぐいと迫る勢いは、大人のその場限りの関係としてはとても好ましかった。今日だけなのを残念に思うくらいだった。
 ぴったりと抱き合って息を整えながら、こんなに気持ちよかったっけと思い出してみたけど、多分今日のが今までの人生で最高だったという結論が出た。
「津野ってすごく上手なの?」
「いや、普通だと思うけど」
「気持ちよかった。ありがと、津野」
 そう言うと、津野が急にベッドに半身を起こして私の顔に手を伸ばした。
「斉藤、可愛いこと言うなぁ。俺と付き合おうよ、優花ちゃん」
「やだ」
 考える間もなく反射的に断っていた。
「瞬殺かよ。なんでだよ」
「私、結婚願望ないから津野のお嫁さんにはなれないの。この歳で結婚前提じゃない付き合いなんてしてる暇ないでしょ、津野は」
 津野はすごく傷ついた顔をした。そんな顔しないで欲しい。
「ごめんね、最初に言っておけばよかったね。津野のお嫁さんが早く見つかるように祈ってるよ」
 私がそう言うと、津野は乱暴なキスで答えた。こんなことで気が済むならいくらでも乱暴にすればいい。そう思って私は体の力を抜いた。
 
7.
 会社では津野と今までどおりにしていた。何かの折に津野から湿った空気を感じることもあったけど無視した。お互いに会社を辞めるつもりはないんだから、このまま慣れていくしかない。
 
 そうやって元に戻れたら良かったのだが。ある日私は顔を引きつらせ、朝からずっと会議だった津野の机の前に立った。
「ちょっと時間ある? 話がしたいんだけど」
「30分したら出るけど、それまででいいか?」
 私は頷いて、行き先ボードの津野と私の欄に「打ち合わせ」と書いて会議室に向かった。
 
「どうした? 仕事のことか? この前のこと?」
 最初にそう聞いてくれる津野は相変わらず優しい。
「妊娠したみたいなの」
 津野が息を呑んだ。それから津野はすぐに私に近づいて真剣な顔で言った。
「結婚しよう、優花ちゃん」
 ああ、ほんとにこの人は優しい。それに比べて私はなんて人でなしなんだろう。
「違うの。まだ確定じゃないけど本当に妊娠してても産むつもりはないから。中絶の書類にあなたの名前書いてもらえないかと思って」
 
8.
「何でだよ」
 津野が思わず私の腕を掴んだ。抑えた声だったが津野は明らかに怒っていた。
「産んでくれよ。結婚もしてくれよ。頼むから」
「産まないし、結婚もしない。結婚なんて、そんな簡単に言わないでよ」
「簡単だろ。俺と斉藤は気も合ってるしこの前のだってよかったじゃないか。俺、斉藤の作る料理も好きだ」
「私の料理なんていつ食べたのよ」
「弁当くれたことあるじゃん」
 そういえばずいぶん前に一度だけ、急に会議の予定が入って作ってきたお弁当が食べられなくなったので、津野に食べてもらったことがある。料理の味がうんぬんできるほどのおかずが入っていたとは思えないけど。
「とにかく書いてくれるのかくれないのかはっきりして。駄目なら他の人に頼むから」
 津野が横っ面を張られたような顔をした。ごめんね津野、こんな女で。
「すぐには決められない。それから病院は一緒に行くから絶対一人で行くな」
 私は頷いた。それくらいの権利は津野にもある。多分。
 
9.
 津野はその後すぐ背中に怒りを滲ませながら外出をし、私は普段の仕事に戻った。が、頭の中は妊娠と津野のことでいっぱいだった。
 津野と結婚して皆に冷やかされながら計算が合わない出産をして、三人で幸せに暮らす未来も可能性としてはある。あるいは、子どもが出来て結婚したもののお互いによく考えずにしたお陰で、別れたくても別れられないという未来の可能性もある。
 そこまで考えて気付いた。私は結婚しないんだからどちらの可能性もゼロだ。
 津野が誰かと結婚して子どもができて幸せな家庭を築いたら、私はその時に後悔するだろうか。
 
 外出先から津野が電話してきた。
「今日の夜、病院行けるか?」
「明日の会議の資料作るから、多分9時くらいまで残業」
「じゃあ明日にしよう」
「うん。分かった」
 戸締りの関係でお互いの残業予定はよく摺り合せているから、部下達が不審に思った様子はなかった。私はこっそりと溜息を飲み込んだ。

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