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095 single stories◆北風と北風と太陽
(現代・日本・30代男×20代女/6900字/14分)
 


「有森くん、私と結婚しろ」

 社長の沢木大輔(さわきだいすけ)が言った。

 秘書の有森侑実(ありもりいくみ)はこの沢木の下について五年。普段から少々のことでは動じないよう訓練をされている。が、さすがに今回の発言には驚きを隠しきれなかった。

 この少し前、有森は郵便配達員が届けた郵便物の中から自分宛の封筒を見つけ、受取拒絶の手続きをしていた。A4サイズの書類が入る濃いピンクの角四封筒だ。
「何だ、それは?」
 社長室から出てきた沢木の問いかけに、有森は軽く会釈をしてから答えた。
「私用で申し訳ありません。これは社長宛ではなく身内から私宛の郵送物です」
「身内から?」
「ええ」
 有森は答えながら自分の認印を出し、配達員が用意した紙片に受取拒絶の旨を書き込んで押印した。配達員はそれを受け取り、ピンクの封筒を手に持ったまま受付を離れた。

 エレベータの扉が閉まり、カゴ位置のモニターランプが消えたところで、沢木は社長室に有森を呼んだ。
 有森をソファに座らせ、向かいに座った沢木が尋ねた。
「なぜ身内から届いたと分かっていて受取拒否をする」
「……中身は見合い写真です。まさか職場に書留で送ってくるとまでは思わず」
「届くこと自体は構わないが、どういう事情が?」
「大した話ではありません」
 苦笑した有森はそう言って会話を終わらせようとしたが、沢木は続きを促すように無言で有森を見つめた。
 有森はあきらめて言った。
「いい歳をして独身の娘が嫁に行き遅れるんじゃないかと心配だから、見合いだけでもしてみろと母が強引に見合い話を押し付けてくるんです。私が結婚するつもりも地元に戻るつもりもないというのが納得できないようでしつこくて」
「親元に戻れと言われているのか? 仕事はどうするんだ」

 新卒で入った大企業から転職して五年、有森は今の仕事が気に入っている。何事も前例に倣う大企業と違い、沢木という若い社長の下で物怖じせず業務の改善拡大を試みる社内の雰囲気も好きだ。沢木の常識にとらわれない発想と大胆身軽な経営スタイルも小気味良い。

 有森は誤解をうけないようきっぱりと言った。
「ご安心下さい。母に何を言われようと私に退職の意思はありません」

 ――そこからの、沢木の命令だった。

* * *

「……社長、今ご冗談をおっしゃいましたか?」
「冗談ではない。結婚する気も辞める気もないなら私と結婚しろと言っている」
 このふてぶてしい沢木の態度に『緊張のあまりプロポーズのタイミングとセリフを間違えたのかな?』などという誤解の余地は毛筋ほどもなかった。会議の手配と同じようにひとこと言えばあとは有森が万事滞りなく準備すると思っている普段どおりの沢木だ。

「結婚する気がないなら結婚しろとはどういう意味でしょうか。その少々――特殊なご提案に至った経緯をお教え願えませんか? 念のため申し上げておきますが、私生活への干渉はパワーハラスメント、恋愛関係の強要はセクシャルハラスメントにあたります」
 話しながら有森は最初の衝撃から立ち直り、こちらも普段どおり、沢木のブレーキ役としての機能を果たしはじめた。
「相手が精神的苦痛を受けていなければハラスメントにはあたらない」
「そうですね。確かに、苦痛を覚えてはおりません」
 有森は沢木の言葉に同意し、改めて正面から沢木を見据えた。
「ただ社長のご発言の真意がつかめず、いぶかしんでおります」

 もしも有森が受取を拒否した、母曰く「釣書とお写真を見たらあなたもぜったい気が変わるはず」という見合いの相手と沢木の条件(だけ)を並べて比較したとしても、沢木が負けることはたぶんない。
 有名大学を卒業し、大企業の創業史に名前を残す祖父をもちながら縁故に頼らず自身の不動産会社を立ち上げ右肩上がりに業績を伸ばし、都内の一等地に自宅を構える若手企業家。
 見た目については人それぞれの好みだが控えめに言っても悪い方ではないし、人混みで頭一つ抜きん出る長身と薄すぎない体躯に加えて自信に満ちた態度が平均的三十代男性よりも他人の、特に女性の目を惹くことは間違いない。
 性格はともかくとして。
 繰り返す。性格はともかくとして。

 そんな沢木が有森に結婚を申し込み……否、命令する理由が有森には分からなかった。
 例えるなら就活生の人気ナンバーワン大企業様が下請けに対等合併をもちかけるような、何かの詐欺だとしか思えないような話なのだ。

 疑いの眼差しを向ける有森に、沢木は淡々と告げた。
「真意というほどのものはないが、強いて言えば仕事環境を快適に保ちたい」
「環境」
 有森はおうむ返しに言った。
 どうやら沢木にとって有森は加湿器や空気清浄機、あるいは観葉植物と同じカテゴリに分類されるものらしい。下請けどころかオフィス什器(じゅうき)扱いだった。
「冷静沈着、おもねらずおごらず打たれ強く仕事にムラがない。出張先でPCが壊れた時にもログインIDとパスワードをそらで代替機に手打ちできる。そういう秘書が家庭の事情でいなくなるリスクを検討した。
 リスク回避への最短ルートが結婚だ」

 沢木の自分勝手な言い草に、有森は今度こそ感情を隠さなかった。あからさまに嫌そうな顔をした。

「嫌なら嫌と言え」
「嫌です」
「どうして嫌なんだ」
 あなたが人の話を聞かないからです、とは有森は言わなかった。いちおう上司なので。

 もちろん人の話を聞かない沢木は今のやり取りがなかったかのように続けた。
「家族付き合いはないし、仕事関係でパートナーを務めてもらうのは現状と変わらない。籍を入れるだけでもいいが、同居したければうちに越してきてもいい。家事をする必要はない。以前君がうらやましがっていたハウスキーパーが定期的に来るからな」
「職場の人間関係を円滑にする上では、リップサービスも必要ですから」
 有森の皮肉は上司の分厚い面の皮をチクリとも刺さなかったらしい。

 沢木の言う結婚がさきほど挙げられた内容だけなら、なるほど確かに戸籍が変わるだけで今の生活とほとんど変わらない。
 現在でも沢木の急な出張準備などのため合鍵を預かっているし、仕事関係の接待などでは沢木のパートナーを務めている。

 有森はすうっと息を吸ってから口を開いた。

「――社長のことは経営者としても上司としても尊敬しておりますし、さきほどのご提案はわたくしの仕事を評価して下さってのことだと理解しました。ですが」
 有森はここで、出来のいい秘書がアポなしで突撃してきた迷惑客を追い払う時用のとっておきの愛想笑いを満面に浮かべて続けた。
「わたくしは自分の労働の対価として頂いている給与と対外的な評価に満足しております。
 ここで社長のご提案をお受けすることで周囲から社長室のガラスを挟んでふたりが愛を育んだ思われるのも、財産目当ての計算高い女だと思われるのも不愉快です。どうかさきほどのお話はなかったことに」
 
 有森にとっては腹の立つことに、沢木は返事をしなかった。

 すっくと立ち上がり社長室を出た有森は、いつものように丁寧にドアを閉めた。役員フロア全体に敷かれたクッション性の高い絨毯が有森が踏み下ろすヒールの音を吸収する。
 有森は静かにふつふつと怒っていた。
 こういう時、機密情報が多く不用意に部外者に愚痴をもらせない社長秘書というポジションは不便だった。

 その日の終業後、有森はジムのスタジオプログラムのキックボクシングに参加して腹に溜まる鬱憤を存分に発散した。

 * * *

 それから数日経った。

「社長、三川先生がいらっしゃいました」
 毎月定期的に訪れる顧問弁護士を社長室に案内し、有森は大ぶりな志野焼の湯のみに淹れたほうじ茶を運んだ。高血圧の三川弁護士のために用意してあるものだ。沢木は何を出しても飲むので正直どうでもいいのだが、目の前でカフェインたっぷりの濃いコーヒーなど飲まれたら三川が切ない思いをしそうなので付き合いで同じものを出す。
 それから有森は、急に社長室に呼び出されてもいいように提出期限まで余裕のある書類の原稿を作りはじめ、何本かの電話に対応し沢木のスケジュールの空いた場所を仮押さえしたが、今日は特に呼ばれることなく会合は終わった。
 社長室の扉が開いて出てきた三川弁護士を、有森は沢木と並んでエレベータの前で見送り、茶器を片付けるため沢木に続いて社長室に入った。
 沢木は普段のように自分の仕事にすぐ戻らず、ソファの前のテーブルに置かれた弁護士事務所の名前入りの封筒を手にとった。
「有森くん」
「はい」
「これを渡しておく」
 有森は持っていた鎌倉彫の丸盆をテーブルに置き、沢木から封筒を受け取った。そして封筒の裏を見て封がされていないことを確認した。
「中を拝見してもよろしいでしょうか」
「うん」
 封筒から顔を出した薄い紙の見出しを読んで、有森がひくりとした。
「『婚姻届』と書いてありますが」
「ああ、必要な個所は記入してある」
 有森は一瞬の暴力的な衝動をやり過ごし、婉曲な感想を述べるにとどめた。
「……売却を渋る土地オーナーの前に現金を積み上げるようなやり方は、正直どうかと思います」
「口約束よりよほど信頼できるだろう」
 頬をひくひくとさせながら有森は他の書類を確認していった。
「この贈与と書いてある書類は何でしょうか」
「結納金代わりだ」
「ひどいセンス」
 有森は珍しく感情を隠さなかった。とげとげしい声で続ける。
「よく三川先生にこんなこと頼めましたね」
「顧問契約は相談一件ごとではなく月単位だ」
「そういうことを申し上げているんじゃありません。偽装結婚でもするおつもりですか? 既婚者としか契約しない取引先があるとか信託財産の受け取り条件が結婚だとか無下に振ると角が立つ相手から言い寄られてるとか資産隠しとか、何かどうしても結婚しなくてはいけないご事情があるのでしょうか?」
「君が何を言っているのかよく理解できないが最後の理由だけは冗談にしてもいただけない」
「申し訳ありません」
 有森は誠意のこもらない口先だけの謝罪を述べた。
「とにかく受け取れ」
「――受け取る受け取らないで押し問答をしても結局社長に押し付けられる未来が見えますのでこのままお預かりしますが、必要な時には仰っていただけばすぐにお返しします」

 有森は茶器を載せた丸盆の下に封筒を重ねて持ち、一礼して社長室を出た。シュレッダーの前でしばらく悩ましげに立ち止まっていたが、やがて封筒を鍵のかかる引き出しに放り込んで茶器を片付けに給湯室へ向かった。

 はじめの数日は仕事のきりがつくたびに有森は封筒のことを思い出しては鍵のかかる引き出しを一瞥(いちべつ)し、時にはあちらこちら保管場所を変えたりしていた。
 が、沢木が今までと態度を変えずその話題に全く触れないのもあって、沢木からのオファーは考え事の優先順位ランク上位からすべり落ちていった。
 それでも有森はごくたまに存在を思い出して「もし婚姻届を渡されてキープしたまま、急に他の人と結婚しますなんて言いだしたら社長は驚くのかしら、まあそんな予定はないけど」と思ったりもしたので、沢木の言うリスクの発生防止にはごく僅かながら効果があったのかもしれない。

* * *

 数か月経ったある日。
 有森が副社長の千川と業務の打合せをしている会議室に総務部長の相田から外線が入った。

「はい、第一会議室 有森です」
「ああ、有森さん! よかった社内にいてくれて」
 受話器からあからさまにほっとした様子の相田の声が聞こえた。
 相田は今日予定されている沢木の手術に立ち会うため病院へ行っているはずだ。
 有森はさっと頭の中で沢木の入院のためにそろえた荷物の中身をさらい、何か足りない物があっただろうかといぶかしんだ。
「社長が今とつぜん婚姻届けを出すまで手術を受けないと言い出したんだが、有森さん何のことか分かるかね?」
「――すみません、こちらの電話の調子が悪いようです。恐れ入りますがもう一度おっしゃっていただけますか?」
 プライベートでは声を裏返して叫ぶような状況でも、仕事中だと落ち着いた受け答えができるんだな、と有森は他人事のように考えた。

「有森くん、婚姻届けを出しておいてくれ」
 受話器から聞こえる声が変わった。相田の電話を沢木が取り上げたらしい。普段と声が違って聞こえるのはベッドに寝ているせいか。
「社長、それは今どうしてもしなくてはいけないことでしょうか?」
「自分が死んだ後で財産がどうなろうと気にしないが、死ななかったときに身内があの弟だけでは今すぐ人工呼吸器を外せと言い出しかねない。頼む」
 有森は一瞬だけ考えて、言った。
「承知しました。相田部長に電話をお戻しください」
 有森は大げさに喜ぶ相田に、こちらは手配しておくと短く説明して電話を切った。
「副社長、申し訳ありません。社長のご命令で至急外出しなくてはいけなくなりました」
「有森さん、なんだか、その、すごい話が聞こえてたけど……」
 千川が真っ赤になって口ごもった。静かな会議室で電話の内容がほぼ筒抜けになるのは有森もよく知るところだ。
「ええ、とんだことを申しつかりました」
「タクシー使っていいからね」
「私的利用にあたる気がします」
「いや、これは公用でしょう」
 副社長の勧めでタクシーに乗って区役所へ行った有森が帰社すると、千川が驚いて声をあげた。
「有森さん? 病院は!?」
「病院? 行ってません」
「行ってきなよ!」
 千川は強く勧めたが、有森は「そもそも術後の身動きができない時に異性がそばにいると気づまりだろうという配慮で相田部長が立ち会うことになっていたのでは」と千川に思い出させた。
 帰りに様子を見に行くと約束してようやく千川が納得したので、定時まで社長代行を務める千川の下で働いてから有森は病院へ向かった。

 沢木の病室は入院棟の高層階にある一人部屋だった。入院の予約をした有森は一般病室との差額が一泊いくらなのか知っているが、しんと静かな廊下の高級ホテルめいた雰囲気に「快適さはお金で買えるんだな」と納得した。
 有森がスライドドアを開けると、ベッドで半身を起こした沢木と目があった。
「お疲れさまです。相田部長から手術の成功をお聞きしました」
 沢木が頷いた。
「こちらが『婚姻届受理証明書』です」
 有森は沢木の前に味も素っ気もない紙を一枚差し出した。
 沢木が証明書を眺めている間に、有森はキャビネットの前にあった丸椅子をベッドの横にもってきて腰を下ろした。ただの丸椅子ですらソファのような座り心地で、ここにも差額のいくらかは使われているらしい。
 沢木が横に置いてあったタブレットを操作して有森に差し出す。
『無理を言ってすまなかった』
「終わった今となっては心配過剰と笑えますが、あの時の社長は一切の反論を受け付けない雰囲気でしたので。そんなに手術が怖かったんですか?」
『怖くない』
「社長は不安があるといつも、問題を分解整理して具体的な解決策まで光速で思いつかれるじゃないですか。怖かったんでしょう、親知らずの手術」
 有森が耐えきれずにくくくっと笑った。手術後で声が出ない沢木は言い返せないので圧倒的に不利だったが、素早く文字を打ち込んだタブレットの画面を叩いて静かに反論した。
『手術は怖くない、全身麻酔の事故を心配していただけだ』
「無事終わって安心しました」
 茶化されているのかと沢木は一瞬疑ったが、有森の顔を見てその疑いを捨てた。

 沢木がタブレットに新しい文字を表示させて有森に見せた。
『好きでもない男と結婚して後悔していないか』
 有森は少し考えて答えた。
「社長はわがままで自分勝手で金にモノを言わせて人を釣ろうとはしても、自分に逆らう人を脅迫したり陥れるような真似はなさらないじゃないですか。そこは好きです」
 あくまで限定的な好悪の評価だったが、有森の口から出た『好き』という言葉に沢木はあからさまに動揺した。
「無理やり結婚を迫るなら婚姻届を渡すよりもっと他にいくらでも手はあったはずです。でも社長は従わないことの不利益を何ひとつ作らなかった。ですから――いいですよ」

 沢木はタブレットに何か書こうとして、気を変えたように手から放した。
 それからおそるおそる有森に手を差し出す。
 有森はその手に、ダンスの誘いを受けたように自分の手を重ね……はせず、しっかりと横から握手した。
「オフィス什器から取引先に進化しました。今後ともよろしくお願いします」
 何の話をしてるんだと言いたげな沢木の顔を見て、有森はひとりで笑い転げた。
 沢木は少々機嫌を損ねたが、有森が楽しそうなので気にしないことにした。

end.(2016/03/05)

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