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077◆美しき黒髪のアドリアナとピンクのロバが流浪の王子を救いし物語
(いつか・どこか・中世西欧風/多分10代女×10代男/原稿用紙31枚/9600字/19分)
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※【R15】か【PG12】か微妙なラインですが、念のため厳し目に設定。竜頭蛇尾注意報。
 
 国王だった父が亡くなってから、その後で王位についた叔父が亡くなるまでの間、叔父に命を狙われていた僕は王子の身分とベイジル・オーガスタスの名を隠し、ただのジンジャー(赤毛)と呼ばれて貸馬屋の下働きを勤めていた。
 城から逃げる途中で護衛とはぐれ、馬まで失って道端で途方にくれていた僕を拾ってくれたのがアドリアナだ。刺客に殺されるより前に空腹で行き倒れそうだった僕を、彼女は叔父夫婦の営む貸馬屋に連れていってくれた。アドリアナは孤児で、彼女もまた叔父夫婦のもとで働いて日々の糧と寝場所を得ていた。
 アドリアナの叔父は僕の叔父に負けず劣らずの嫌な奴だったし、僕は僕でロバの世話どころか自分の世話もしたことがなかったので、最初のうちは朝起きてから夜寝るまで分からないことだらけで大変だった。腕が上がらなくなるまで汚れた藁を掻いたり仕事が遅いと殴られたりするのは痛いのを我慢するだけでよかった。剣術の時間と大して変わらない。辛かったのは何も知らない、本来なら踏んでやる価値すらない奴にうすのろと嘲られ威張られることだった。
 夜一人になると建物の間から顔を出す月を眺めては、何も遮るもののなかった城の窓から見た夜空を思い出して泣いた。
 
 そんな日々の中でアドリアナの存在だけが僕に安らぎと憩いを与えてくれた。
 アドリアナは僕より力持ちだったし器用だったから、楽できると思ったのにあてが外れたと愚痴をいいながらも僕の仕事を手伝い、失敗をごまかし、台所からくすねたくず芋を分けてくれた。この芋を食べた僕は強烈な腹痛と吐き気で一晩中苦しんだのだが、同じ芋を食べても彼女は何ともなかったから彼女の善意は疑いようもない。僕が下々の食べ物に慣れていなかっただけだろう。
 アドリアナは天使のように美しいとはいえなかったけど、たとえ天使だっていつも雑用でこき使われて空腹で、汚れた藁にまみれて馬屋で寝ていたら絵に描かれるような姿ではいられないはずだ。アドリアナの美しさは、そんな生活をしながら赤の他人の僕にまで優しくできる心にあった。がりがりの身体やぱさついてもつれた髪の奥に、運命の流転に涙が落ちる晩に僕を癒してくれた汚れた手にこそ、彼女の美しさがあった。アドリアナがいなければ、僕はとうに人生に絶望していただろう。
 
 馬屋で寝起きしながら手のまめを何度もつぶし、ちくちくが手に刺さる荒縄もためらわずに握れるようになり、このままずっとジンジャーとして暮らしていくのかなと思い始めた頃、城から迎えがやって来た。叔父は狩の途中で落馬し、そのまま亡くなったのだという。僕の命を奪おうとする者はいなくなった。奪うものは奪われるという古人の言どおりの結末だ。
 
 馬屋の前で金の紋章つき馬車が停まり、それよりも簡素な馬車から降りた宰相が僕の前で膝をついたとき、今まで僕を「使えないうすのろ」呼ばわりしていた貸し馬屋の主人夫婦があわてて床に額をこすりつけたのはちょっと気分が良かった。……もっともこんな当たり前のことくらいで気分を良くしては亡き父を悲しませてしまうだろう。王族の前で顔を上げていられるのは、それが許された者たちだけと最初から決まっているのだから。早くここでの生活を忘れて元の自分を取り戻さなくては。
 でも熱々の煮込みが食べられなくなるのはちょっと残念だったりする。なにせ城で出される煮込みは地下の厨房で調理され、近侍によって毒見係のところへ運ばれ毒見をされ、さらにその毒見係の様子が変わらないことを確かめてからようやく給仕されるので、僕の口に入る頃には冷めて脂が浮いて決して美味いものとは思えなかったのだ。初めて下々の者が口にする煮込みを食べて舌を火傷した僕を指さして笑った奴らは、僕の本当の身分を知って今頃眠れない夜を過ごしていることだろう。は、は、は。ワスレナグサの花でも送りつけてやろうかな。
 とにかく僕は潜伏生活を終えて身分を回復することになった。これで顔の上をネズミが走る寝床ともお別れだ。
 
 もちろん僕は、愛しいアドリアナをネズミと一緒に残していくつもりなどなかった。
「おお、美しきアドリアナよ。どうか我が城へ共に来て欲しい」
 それを聞いた周囲がどよめいた。この場に居合わせた幸運な者たちよ、やがて伝説となるこの光景を末代まで語り継ぐがよい。ふっふっふ。
「えっ? はっ、はい」
 そんな飾らない返事をくれたアドリアナの手を取って、僕は意気揚々と金の馬車へと乗り込んだ。
 
 馬車の中には、近侍のヴィクトルがいた。僕の身の回りの世話をするためにここまで連れて来られたようだ。
「ベイジル様、淑女の前でお召し替えなさるおつもりですか?」
 向かいの席まで僕の衣装をずらり取りそろえ、粗末な服を着替えさせようと待ち構えていたヴィクトルが冷たい声で言った。
 正直、こういう展開は予想していなかった。アドリアナと二人きりになって色々と説明するつもりでいたんだが。
「あー、ヴィクトル、久しぶり。こちらはアドリアナだ。一緒に連れて行くので、彼女にもふさわしい着替えを手配してくれ」
「こちらには女性の服の備えはございません。アドリアナ嬢が他の馬車に移りお召し替えできるように一度馬車を止めて頂けませんでしょうか」
「わかった」
 僕の言葉を聞いたヴィクトルが御者に声をかけて止めさせた。僕の身の回りのほとんどのことはヴィクトルが決めているのだが、あくまでヴィクトルは僕の家来であり、自分の判断で勝手に僕の馬車を止めたり走らせたりはしないというのが建前だ。
 不安そうなアドリアナを侍女が乗った別の馬車に移し着替えさせるように命じてから、馬車は再び走り出した。僕の方も金馬車の中でヴィクトルに世話を焼かれていた。ヴィクトルは脱いだ服から落ちた砂を小さなほうきで外に掃きだしている。僕があんな姿勢で後ろ向きに乗っていたらまず間違いなく馬車に酔う。ヴィクトルはよくも平気なものだ。
「アドリアナは大丈夫かな」
「ベイジル様がどういった理由でお招きになったかで、お答えは変わって参ります」
「……そう、つまり、その、あれだ、ええと、うん」
「不幸な境遇を見るに見かねて連れ出したと」
「そうだけど、それだけじゃなくて、その」
「妃に召し上げるためお連れになったと」
「うん、そう。相変わらず冴えてるな、ヴィクトル」
「お誉めに預かり恐縮です。しかし、お分かりでしょうが今のままでは殿下とアドリアナ嬢の身分の差が大きすぎて賛成しかねるという方が多いかと存じます」
「貴族の養女にして、ふさわしい教養と礼儀作法を身につけさせるとか」
「アドリアナ嬢がそれをお望みでしたら」
「うーん……ないな」
「では、どなたか信頼のおける方にお預けになって、身の立つようにして差し上げたらいかがでしょう」
「意地悪言うなよヴィクトル。僕はアドリアナと結婚したいんだよ」
「さようでございますか」
 僕が言いたいこと全部分かっているくせに、ヴィクトルは僕が言わないと何もしてくれない。
「ヴィクトル、アドリアナに負担をかけずに結婚する方法を考えろ」
「御意」
 
 次の休憩で馬車が止まるまでに、ヴィクトルは彼曰く「古典的な」計画を思いついた。僕は早速それを実行に移すようヴィクトルに命じた。
 
 僕が身を隠している間に季節が二つ過ぎ、宮廷はもっと暖かい地へと移っていた。そこでまずヴィクトルは吟遊詩人をつかまえて『美しき黒髪のアドリアナとピンクのロバが流浪の王子を救いし物語』を詠わせ、僕達よりもずっと先に着くようにあちこち広めさせた。途中に貴族の城があれば僕たちはそこで宿を借りて『美しき黒髪のアドリアナとピンクのロバが流浪の王子を救いし物語』を披露したが、歌の方が先に着いていた城ではアドリアナと僕は大歓迎を受けた。何しろ物語の主人公が現れたのだ。
 よくピンキー・ドンキーは一緒じゃないのかと訊かれたが、あれは詩人の想像力の産物だった。本物のドンキーはすぐに人の足を踏む意地の悪いロバだったし毛の色はありふれた茶色だった。詩人は毛の色をピンクにした方がピンキーとドンキーで韻を踏みやすいし、カラフルなマスコット的動物は物語の印象を強めるのに役立つからとピンクのロバを詩の中に登場させたのだ。
 確かに詩人の言うとおりだった。途中の街で見かけた、乗ったら潰れそうなピンクのロバを連れた(元は犬を連れた羊飼いの娘だったらしい)人形や、黄色い髪を黒く塗ってピンクのロバを描き足した絵皿は、機に敏い商人の逞しさと同時に美しき黒髪のアドリアナとピンキー・ドンキーの人気を世に知らしめ、元の歌の人気を一層高めていた。
 
 このように旅も計画も順調に進んでいたが、僕はアドリアナと過ごす時間の少なさに内心で不満を募らせていた。
 身分のない頃はよかった。同じ馬小屋で手をつないでいても誰にも何も言われずに済んだ。今はアドリアナと二人きりにならないように、いつも誰かが目を光らせていた。
 
 しかし今夜は違う。昔みたいに二人きりの時間がもてる筈だ。
 
 今夜僕たちが泊まっているのは離宮だった。ここには、ごく限られた者しか知らない秘密の抜け道がある。
 僕は深夜にそこを通ってアドリアナの部屋を訪れた。
 きっとアドリアナも歓迎してくれると思っていたのに、ベッドの横に立つ僕に気付いたアドリアナは予想に反して悲鳴を上げ、ベッドから飛び出すと猫のように下の狭いすきまにもぐってしまった。
「猫ちゃん、いじめないから出ておいで」
「に、にゃー」
 一体全体どういうわけで、王子である僕が離宮の客用寝室の床に這いつくばって天蓋つきの豪華なベッドの下を覗き込み、へたくそな猫の鳴き真似に付き合っているのか。
 もちろん、ベッドの下にいるのが僕の愛するアドリアナだからだ。
「ねえ、アディ。にゃーしか言えなくなっちゃったの? それとも僕が嫌いなの?」
 鳴き声がぴたりと止んだ。
「アディが出ないなら、僕もそこに行っていい?」
 返事はなかったが、僕はそのままずりずりとベッドの下へ潜り込んでいった。
 
 ベッドの下は思ったよりもずっと狭くて鼻をぶつけそうだった。でもようやく探り当てて握ることが出来たアドリアナの手が、馬屋で寝た時と同じように握った僕の手を無言で握り返してくれたので、少しだけ安心した。
 大きく息を吸って、なるべく優しく聞こえるように意識して声をつくった。
「僕はアディのことが大好きだ。でも、アディが嫌なら何もしない。このまま都まで一緒に行ってくれるだけでいい。せっかくだから観光もして、お土産をたくさん持って帰ればいい」
 もしそうなればきっとアドリアナは王子のお手つきで帰された出戻り娘と噂されるだろうけど、嫌々妃になるよりはずっと幸せになれると思う。もちろんあの意地悪な叔父夫婦の世話にならなくても一生暮らしていけるだけのものは贈るつもりだ。
 もしそうなればきっと僕はすごく不幸になるけど、城から逃げ出した時だって何とかなったんだから、今度も何とかできると思う――あの時はアドリアナがいて、僕を励ましてくれたけど。
 
「ジン……ベイジル様が好きよ」
 アドリアナが小さな声で言ってくれた。僕は息を吐き……返事を待つ間ずっと息を止めていたと今になって気付いた。
「でも、ベイジル様は王子様でしょう? 私、あの歌みたいに綺麗じゃないし、ピンクのロバも連れていないし、ベイジル様より力持ちだし、手だって大きいし……私がこんなとこにいていいのかな?」
「ベッドの下に?」
 すかさずそう訊いた。
 ずいぶんたってからアドリアナがくすっと笑った。
 それはほんとに小さな笑い声だったけど、僕を勇気づける笑い声だった。
「ねえアディ、ベッドに戻ろうよ。ここは床が硬くて背中が痛いし寒いよ」
 
 アドリアナは素直にベッドに戻った。僕は急いで彼女の隣にもぐりこんで天蓋の垂れ布を閉めた。今度こそ逃げられないように後ろからしっかり抱きしめ、彼女の首筋に顔を埋めた。彼女の背中から緊張が伝わってきたけど、抗う気配はない。
 アドリアナは僕と結婚したくないわけじゃない。戸惑っているだけだ。その証拠に僕を好きだと言ってくれた。僕は絶対にアドリアナを手離さない。もう決めた。
 二人とも身じろぎひとつしなかった。天蓋が周囲の音を吸い込んで、中の僕達にはお互いの息の音しか聞こえなかった。アドリアナの首筋から、石鹸と彼女の匂いがする。
 布越しにぼんやり見えていた蝋燭が急にちりちりと音を立てて僕等を驚かせ、最後の輝きを放ってすうっと消えた。
 闇の中でアドリアナの温かい首筋に唇で触れた。彼女が小さく吐息をもらした。
 
 行け、ベイジル、行け!
 
 頭の後ろで、僕にとてもよく似た声の誰かが僕をそそのかした。
 アドリアナの耳元で「いいよね」とささやくと、しばらくたってから彼女がこくんと小さく頷いた。
 
 震える肌にそろそろと手を滑らせる。新しい場所に触れるたびに、アドリアナは小さな声をあげた。それが可愛くて愛おしくて、手はどんどん寝間着の奥へ入り込む。薄い胸の膨らみを両手で包むと、アドリアナは溜息をついた。がりがりなのにここだけは肉がついているのが不思議だ。糊のきいた亜麻のシーツががさがさと大きな音を立てる。
 アドリアナを仰向けに寝かせ、上から包んで抱きしめた。
「アディ、愛してる」
 アドリアナの熱い息が耳たぶにかかった瞬間、頭が沸いた。
 彼女の両足を高く上げて一気に思いを遂げようとした、次の瞬間。
 
 僕は垂れ布のすきまから飛び出し床に転げ落ちた。
 アドリアナが僕を蹴ったのだ。
 王子であるこの僕を。
 
「んなっ、なっ、なっ……何するのよっ!」
 息を吸うのと叫ぶのを同時にやろうとしたアドリアナが何度目かの挑戦でやっと叫ぶのに成功した。
 そっくり同じ台詞を返したかったが、僕は背中を打った衝撃で叫ぶことができなかった。そんなことよりも早く床から起きてベッドに戻らなければならない。騒ぎに気付いた侍女が控えの間からいつ飛び込んでこないとも限らない。床でカエルみたいにひっくりかえってる姿を見られたりしたら威厳も何もあったものじゃない。ああ、こんなことなら内側からかんぬきをかけておけばよかった。
 恐る恐る起き上がってみたが、どこも痛めていないようだ。僕は手探りでベッドによじ登りながらアドリアナを責めた。
「落とすなんてひどいよ。『いいよね』って訊いたら頷いたじゃないか」
「ジンジャー、あんたいったい何しようとしてたのよっ!」
 アドリアナは突き落としたことを詫びもせず、ロバの朝食に干草のミルクがけを出した時と同じくらいの勢いで僕を問い詰めた。呼び方までジンジャーに戻っている。
 
 ああ、そうか。
 不意ににやりとした。純真なアドリアナは知らなかったんだ。
 あたりの暗闇に感謝しながら僕は頬をゆるめて説明を試みた。
「大丈夫だよ、怖がらないで。これは房事といって、結こ……恋人には許してもいいことなんだよ」
 僕たちがまだ婚姻を交わしていない事実を華麗に回避してそう言い聞かせたが、アドリアナは聞き分けなかった。
「なにを勘違いしてるのよっ!」
「えっ……確かに僕たちは恋人同士とはいえなかったけど、一緒に城へ来てくれって頼んだら頷いてくれたじゃないか。まさか意味が分からなかったとか今更なこと言わないよな。あれ、プロポーズだって分かったよね?」
「……うん」
 アドリアナが恥ずかしそうに小さく答えた。ああ、よかった。
「衝撃の新事実発覚かと思った。脅かさないでよ」
「……じゃなくてっ!」
 よくなかったみたいだ。
「あっ、えっと、うん、本当は結婚してからする事なんだけど、でもちょっと先走るくらいはいいと思うんだ。だって僕たちはじきに夫婦になるんだし、せっかくの機会だし……その……いいから続きをしない?」
「無理っ!」
 
 そんなに何度も全力で拒否されると結構こたえる。彼女に拒絶されるのは今晩これで二度目だ。三度目にはそろそろ本気で泣いてしまうかもしれない。
「帰る」
 今度こそ格好良くベッドから降りようとしたのに、寝間着が何かにひっかかっている。舌打ちしながらたぐった寝間着の先には、裾を握り締めたアドリアナの手があった。
 
 無言のまま寝間着を握って二人でもじもじした後、僕はアドリアナを腕に抱いてキスした。
 さっきはちょっと性急すぎてアドリアナを怯えさせてしまったんだ、きっとそうだ。今度はゆっくり進めることにしよう。頭の後ろから聞こえる声も「落ち着け、落ち着け」と励ましてくれている。さっきは悪魔みたいなささやきだったけど、結構いい奴だな、この声。
 ゆっくりと進んだ愛撫がベッドから蹴りだされた瞬間に近づいてきたところで、アドリアナが口を開いた。
「あっ、あのね、ベイジル様」
「黙って」
 アドリアナの唇を人差し指で押さえた。旅に出てからは食事が良くなったせいかもう荒れていない。ふっくらして素敵なさわり心地だ。その唇が僕の指の下でまた動いた。
「さっきのあれ」
 ああ、やっと僕に謝ってないことを思い出したのか。僕ももちろん覚えてたけど今更そんなことをねちねち言うつもりはない。アドリアナには特別に許しを与えよう。
「いいよ、もう気にしてないよ」
「気にしてよっ!」
 いきなりアドリアナが体を起こそうとした。せっかく僕がここまで盛り上げたムードを壊すつもりかと、アドリアナを上から押さえつけた。さっきは油断してたけど、もう女の子に突き落とされたりしないぞ、多分。
「もう逃げられないよアディ、さあ、おとなしく僕のものになるんだ」
 ノリノリの僕の下で、ノリの悪いアドリアナが溜息らしきものをついた。
「……恥ずかしいけど、ちゃんと言わないと分からないみたいだから言うね。ジンジャー間違えてるの」
 僕は凍りついた。そして叫んだ。
「何っ!?」
 
 本当のことをいうと房事については話でしか知らない。細切れに聞いた話からあそこにあれをなにするという漠然とした知識はあるんだけど、城にいた頃は周囲をがっちり近侍に固められていたので実践のチャンスがなかった。
 僕はいったい何を間違えたんだろうか。いつもならこんな時は、ヴィクトルがその場にふさわしい答えを教えてくれるのに。そうだ、ヴィクトルがいれば。
「……ちょっとヴィクトル呼んでくるっ」
「待ってっ!」
 ベッドから降りようとした僕は再びアドリアナに引き止められた。
「呼ばないでいい! その……私、分かるから」
 何をっ!?
「アディは初めてじゃないのっ!?」
「初めてだよ! 初めてだけどっ……ジンジャーは、その、馬とか犬とか見たことないの?」
「それと房事に何の関係があるんだよ?」
「……駄目だこれは」
 アドリアナが失礼なことをつぶやいた。でもむっとしたのは一瞬だった。
 アドリアナは僕の手を。
 手を。
 ああ、僕の手を。
「ね、男の子と違うの、分かる?」
 声が出なかった。
 ただ馬鹿みたいに暗闇の中で何度も何度も頷いた。
 分かった。
 あそこにあれをなにするっていうあそこはあそこじゃなくて……!
 
 その時だ。
 ばーんっ、と勢いよくドアが開いた。アドリアナは小さな悲鳴を上げて僕にしがみついた。
 
「ベイジル殿下、こちらにいらっしゃいますか?」
 真冬の氷のように冷たい声がした。僕は最高潮に盛り上がった気分に水を差されて全身からしゅうしゅう湯気を上げていた。僕の下でアドリアナは縮こまっている。
 さっき呼んだのを聞きつけたかのように現れたのはヴィクトルだ。ちくしょう、殺してやりたい。でもきっとあいつを殺そうとしたら『殿下が明日の朝お困りになる十の理由』とかをきちきちと理詰めで僕に説明するに違いない。
「殿下?」
――いるけどいないっ!」
 やけになって答えると、布越しに手燭の灯りが近づいてきた。
「アドリアナ嬢、乙女の寝室に押し入った非礼をお許しください。火急の用件のためやむを得ずこちらへ参りました。まさかとは思いますが、もし万が一殿下のお渡りがあった時にはこうお伝えください。『正式な婚姻を結ぶおつもりがあるのでしたら、未だ開かぬ蕾を散らすような真似はなさらぬように』と。聡明な殿下は当然ご存じの筈ですが、王家の床入りには立会人がつき婚姻の成立を確かめることになっておりますので。それでは、お休みのところ申し訳ありませんでした」
 ヴィクトルは言いたいことだけを一方的に言った。いつものことだけど本当にいちいち言葉の選び方からして嫌味な奴だ。聡明なとか思ってもいないくせによく言えるな。
 返事を待たずにヴィクトルは戻っていった。垂れ布に映るヴィクトルの影が巨人のように大きくなって、扉の閉まる音と一緒に消えた。
 
「アディ、もう大丈夫だよ」
「……どうしてジンジャーがここにいるって分かったのかな」
「あいつは人を驚かすのが好きなんだ。ははははは」
 笑ってごまかしたが、この部屋にも覗き穴があったとは僕も知らなかった。ははははは。
「笑ってごまかそうとしてるでしょう」
 アドリアナは怒った声で言った。
「大丈夫だよ、あいつは口が堅いから。それより続きを」
 言いかけた僕の顔を、アドリアナが片手で握りつぶした。
「いひゃい、いひゃいよアイィ」
「できるわけないでしょうがっ」
「あい、ろれんならい」
 アドリアナはもう一度僕の顔を怒りを込めて握ってから解放してくれた。
「さっきモキッていったよ、モキッて」
 今ので顎が歪んだんじゃないだろうか。
「ねえジンジャー。私のこと、本当にお嫁さんにしてくれるの?」
 アドリアナが、握力に似合わない可愛らしいことを訊いてきた。ああ、本当に可愛いな。胸がきゅーんとなった。
「もちろんだよ、愛しいアドリアナ」
「それなのに、その……『蕾を散らそう』と思ったの?」
「ごめんなさい。まったく何も考えてなか……いひゃいいひゃいいひゃい」
 アドリアナは再び僕の顔を片手で潰してから、溜息をついて言った。
「騙そうとしてたんじゃなくて本当に何も考えてなかったって分かっちゃう自分が嫌だわ」
 その言葉にはあきらめの響きがあったけど、さっきベッドの下で僕をベイジル様って呼んでいた時の不安な声よりもずっと耳に心地のいいものだった。アドリアナは呆れてても僕のことが好きだって伝わってくる。
「僕もアディが大好きだよ」
「馬鹿っ……あんっ」
「しいっ」
 ヴィクトルに脅かされて萎えて帰るんじゃあんまり癪にさわるから、僕たちは声をひそめて蕾を散らさずにできることをいろいろと試してみた。もちろん今度はヴィクトルが入ってこられないようにちゃんとかんぬきをかけるのも忘れなかった。
 
 都に着いた僕とアドリアナは国民から大歓迎を受けた。
 新国王には僕ではなく亡くなった叔父の息子である僕の従兄がなった。父親に似ず性格の良い従兄と僕で王位を譲り合った末に、従兄が王になり僕が王太子になるということで落ち着いたのだ。従兄の息子が大きくなったら王太子の座も譲ろうと思っている。
 せっかくなので波を逃さずに立太子式と結婚式を同時に行った。その頃にはアドリアナはふっくらして髪もつやつやになって「美しき黒髪のアドリアナ」の名にふさわしい姿になっていたし、物語に詠われた二人のロマンスを国民が歓迎した。誰も僕たちの結婚には反対をしなかった。これでまた『美しき黒髪のアドリアナとピンクのロバが流浪の王子を救いし物語』に新しい章が加えられ、今度は都から国中に広まっていった。
 婚礼の夜、アドリアナの蕾は僕の手で見事に花開いた。もちろん正しいやり方で、僕がベッドから蹴りだされることもなく。
 ヴィクトルに褒美で何でも好きなものをやるといったら、何でもやるなんて簡単に言っては駄目ですよ、奥方や殿下をと言ったらどうするんですかと説教をされた。冗談でも笑えない。そうやって脅しておいて欲しいものはないというので、勲章と勲位を与えておいた。
 
 こうして美しき黒髪のアドリアナと流浪の王子は、(ピンクのロバはいないけど)今も幸せに暮らしている。
 物語の結末はまだずっとずっと先だ。
 
end.(2013/07/29)
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