ソロモンの指環 side M  1 2 3 - side O  1 2 3  シリーズ目次 単発作品一覧 サイトトップ
【R15】(15歳未満の方は閲覧をお控え下さい。なお主人公は18歳以上です。)→ガイドライン
 
【side M・2】
 
 夏のとても暑い日の部活動中、夏野先生がトロ箱を持ち込んできたことがあった。皆はもしかして差し入れかと色めきたった。
「先生、それ何ですか?」
「食べるものじゃないぞ明日の授業で使う牛の目玉だ。ほら」
 先生が袋から目玉をひとつ取り出して見せた。
「ぐぇええっ」
「そんなの持ってこないで下さい。どっか他でやって下さいよ」
「お前達はまったく……何のために理科室があると思ってるんだ」
 そう言って先生はトロ箱の中身をフリーザーに仕舞った。
「生物部員のくせに嘆かわしいな」
「だって気持ち悪いじゃないですか。うわー、先生その手でそこ触らないで。洗ってきて下さい」
「そうやって何でもすぐ気持ち悪いと言うが、水晶体をよく観察してみるといい。名前の通り、生体の作り出した宝石のようだ。生物はよく設計されている。一つの卵子と精子からあれだけのものが出来上がることは素晴らしいと思わないか? 生物の驚異だ」
「卵子と精子って……
 誰かが小声でそう言って皆は赤くなった。交際相手との赤裸々な体験を冗談にする生徒もいなくはないが、私たちの学校は基本的にほとんど皆、晩生(おくて)だ。そういう冗談を先生と、特に男の先生と交わすほど世慣れた生徒は私の周りにはいなかった。そして先生はその単語から私たちが覚える恥じらいに気付くことなく、真面目に心から生物の驚異を称え、生き生きと語っていた。
 
 ある秋の日。エサやり当番で理科室を訪れると先生が窓際に座っていた。キュウキュウと鳴きながらモルが先生の腕で遊んでいた。
「先生、何をしてるんですか?」
「モルの運動だ。ずっとケージの中では飽きるからな」
 先生は優しい顔でモルに微笑んだ。私は密かにモルに嫉妬した。モルはずるい。先生を独り占めするなんてずるい。そんな気持ちを違う言葉にして口にした。
「仲間がいなくて、かわいそうですね」
「メス同士ならまだいいんだが、オスは同じケージでは飼えない」
「じゃあお嫁さんを捜してあげたら?」
「友木は小動物を飼ったこと、ないんだろう」
「はい。うちは食べ物を扱っているので」
 そう答えると先生はやっぱりな、と笑った。
「つがいにしたらネズミ算で増える。子どもの世話は大変だし、すぐ後悔して可哀想なんて言ってられなくなる。モルモットは人類と同じで季節に関係なく発情期がくるからな」
 そう言って先生は、きっと人類の発情期についての話題が女子生徒と交わすのに相応しくないことも私が今まさにその状態にあることにも気づかず、モルと無邪気に遊び続けた。
 夏野先生は綺麗だ。見た目のことじゃなくて(それもあるけれど)、心の中がとても綺麗。……私の中の、このどろどろとした思いは先生にふさわしくない。
 私はそっと自分の手で胸を押さえた。先生は優しい。
 でも優しさだけじゃ物足りない。もっと欲しい。先生が欲しい。
 
 そして冬なのに珍しく雷が鳴り稲妻が光る、あの大嵐の日がやってきた。
 
 落雷があって大規模な停電が起きた。家は幸い停電の範囲外だったが、すぐ向こうの通りからは信号機も全て暗くなり、車はどうしていいか分からないというようにのろのろと譲り合いながら走り、人々は携帯電話のかすかな光を頼りに何とか明るい場所へ戻ろうと雨の中で右往左往していた。
(モルが……!)
 不意に気付いた。学校へ行かなくちゃ。モルは数日前から体調を崩していた。ヒーターが消えてしまったら死んでしまうかもしれない。そうしたらきっと夏野先生が悲しむ。
 家族に言ったら止められると分かっていたので、布団をクッションで膨らませてから懐中電灯と傘を手に、こっそりと家を抜け出した。理科室のある旧校舎には外から入れる通用口があって、ちょうど冬休みのエサやり当番のために私はその合鍵を持っていた。
 ぴたぴたと水を床に滴らせながら理科室の扉の前に立ち、鍵束からもう一つの合鍵を選んで鍵穴に差し込んだ。鍵を回したがそれ以上回らないので、ドアノブをひねってみるとドアが開いた。
 すぐ目の前に黒い影が立っていた。
「だれっ!?」
 とっさに懐中電灯を向けると、目をかばった相手の手が光った。見覚えのある大きな手。
「夏野先生!?」
「友木か!? どうやって入ってきた?」
「合鍵で……
「ずぶぬれじゃないか」
 夏野先生は慌てながら私の肩に触れた。
 
「いったいどうしてここに来た」
「モルのヒーターが消えたままじゃ可哀想だと思って」
「無茶をする。とにかくこのままじゃ風邪をひく。とりあえず準備室でこれに着替えろ。濡れた服はバーナーか……いや、バーナーでは燃えるな、アルコールランプも駄目だし……
 夏野先生は私に白衣を差し出すと、独り言を呟きながら暗い理科室の中を歩き回っていた。私は隣の準備室で服を脱ぎ、先生の白衣に袖を通した。洗って置いてあったらしい白衣からは、家とは違う洗濯洗剤の清潔な匂いしかしなかった。
「先生」
 白衣で理科室に戻った私が呼びかけると、夏野先生は私の方を振り向いた。机の上に置かれた懐中電灯が、先生の大きな影を壁に映し出した。
「大丈夫か?」
「先生、」
 私はそのまま先生の胸に飛び込んだ。そして早い音を立てはじめた先生の心臓の上に耳を押し付けた。
「駄目だ、友木」
「寒いです」
 本当だった。濡れた靴下も脱いで裸足だった。震えているのは寒いせいだけではなかったが、本当に背中がぞくぞくしていた。先生もそれに気づいたのだろう。駄目だと言いながら、私を抱きしめてくれた。
「家に連絡をして、着替えを持ってすぐ来てもらった方がいい」
「無理です。信号も消えているし学校の中だって真っ暗で、家族ではここまで辿りつけません」
「だからってずっとこうしてはいられない」
 先生が苦しそうにそう言った。私の胸の中で、どろどろしたものが泡だっていた。先生をもっと困らせたい。ちゃんとここにいる私を意識して欲しい。
「先生暖めて下さい」
「駄目だ。友木」
「生物の発生について教えてくれましたよね。卵子と精子から宝石のような美しいものが出来上がる驚異について話してくれましたよね。私、先生に教えてほしい」
「駄目だっ……
 先生は歯を食いしばってそう言った。私が手を伸ばして頬に触れると、先生はびくっとして私の手から逃げようとしたが、背伸びをした私の唇が先生の唇に触れると、外の嵐に負けない激情の込められた口づけが返ってきた。
 
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