フライディと私シリーズ第十四作
028◆猫のパンこね シリーズ時系列目次 サイトトップ
(現代・外国・20代男×10代女/原稿用紙14枚)
※シリーズ第一作のネタばれを含むため第一作「フライディと私」読了後の閲覧を強く推奨いたします。
 
 どかん。ばたん。
 キッチンには先程から繰り返し重たいものを叩きつける音が響いていた。
「『猫のパンこね』ってもっと可愛いものだと思ってたんだけど。」
 そんなチップの小さな呟きも音にかき消され、キャットには届かなかった。
 
 猫は気持ちのいい時、目を閉じて前足で何かをこねるような仕草をする。チップはこれが "Making Bread(パンこね)" と呼ばれることを知っていたが、初めて目の前で見る『猫』のパンこねの方はそんな可愛いものではなく、本物の猫なら最初のどかんで尻尾を太くして一目散に逃げ出すような代物だった。チップも最初の音で驚いて身じろぎしたものの、今では興味津々という顔でパンをこねるキャットを見守っていた。キャットは昔からこれで腕を鍛えていたからテニスが得意なのかとふと思いついてチップはひとり笑みを浮かべたが、賢明にもそれを口には出さなかった。
「ねえ、ロビン。代わろうか。」
「駄目。」
 キャットは振り向きもせずチップの申し出を断った。チップにただ力任せにこねさせるわけにはいかなかった。ただ叩きつけているように見えるかもしれないが、実際は形を整えまんべんなく混ざるように少しずつ場所を変え、手の感触で具合を確かめながらこねているのだ。
 
「前にパン焼いて欲しいって言ってたよね。」
 先週のデートでキャットからそう言われチップは喜んだ。
「焼いてくれるの?」
「週末に家に帰るからその時に焼いてくる。」
「僕は焼きたてが食べたいな。」
 チップはキャットを口説いてどこかの別荘へ遊びに行くつもりだった。しかしキャットが渋った。オーブンが違うとうまく焼けないし使う道具も揃わないからと言って、逆にチップを実家へと誘った。そういうわけで二人が今いるここはキャットの実家のキッチンだった。
 キャットの両親はベーカリーを営んでいるので週末は仕事で忙しく家にはいない。通いの家政婦の方は週末が休みだった。今このフラットにいるのはキャットとチップの二人だけだった――とは言っても、両親が働いているのは同じビルの一階にある店舗とその上にあるオフィスだ。本来なら家族が留守の家に上がりこむことは好ましくないが、そこは恋人と保護者という時に矛盾する役割を両立させてきたチップだけあって、今回も抜かりなくあらかじめキャットの両親に『途中で様子を見にいらして下さい』と頼んであった。
 
 はじめは所々に小麦粉やバターがそのまま顔を覗かせていたパン生地は、キャットがこねるにつれなめらかになりつやもでて、叩きつけるたびに伸びるようになってきた。
「ちょっと味見してもいい?」
 チップが訊いた。キャットが手を止めきょとんとした顔をチップに向けた。
「味見?」
「うん。」
 キャットがスケッパーを手にとり、生地の端を落としてチップに差し出した。
「はい。」
 笑顔のチップが開けた口にキャットが生地を入れた。チップが口を閉じ、じきにその笑顔が消えた。チップの笑顔が消えた代わりにキャットがじわじわと人の悪そうな笑顔を浮かべた。
「おいしくないでしょ。」
「君の言うとおりだ。率直に言って粘土を口に入れたような気分だ。」
「当たり前だよ。何を混ぜたかは見てたでしょ。パンは発酵して美味しくなるんだよ。今食べたって美味しいわけないじゃない。」
 これでもかと言うくらいに貶められたチップが言い返した。
「パンの素なんだからもっと美味しくてもいいじゃないか。小さい頃はケーキを作ってるキッチンでこっそり生地の味見をさせてもらうのが好きだったんだ。同じようだと思ったのに。」
 不満げに訴えるチップに重なって、周囲に愛されていたやんちゃで幼い王子の姿が今にも透けて見えそうだった。きっと王子に甘いパティシエがこっそりと生地の残りを味見させ、後から侍従に怒られていたに違いなかった。
「パンを作るところは見たことなかったの?」
「パンは外のベーカリーから届いていたんだ。」
 チップを見上げたキャットが嬉しそうに笑った。
「ふうん。フライディにも知らないことがあるんだね。」 
 そしてキャットはこねおえて発酵の始まったパン生地をくるりとまとめてボウルに入れ、ホイロ(発酵機)に入れた。
 
 一次発酵が終わると、キャットは生地をガス抜きしてから分割し手馴れた様子で成形していった。今度はチップもキャットの厳しい指導の下でいびつなパンをいくつか作らせてもらえた。成形が済んだパンをバットに並べてまたホイロに戻し、キャットはにこにこしながら言った。
「フライディってもしかして工作とかは得意じゃなかった? そういえばあんまり細かい手仕事が好きって言わないよね。私ずうっとフライディは何でもできるって思ってたけど、実は今まではフライディの得意なことばっかりしてたのかなぁ。」
 キャットがあまりに嬉しそうなのでチップが皮肉っぽい笑みで答えた。
「何事にも最初の一回があるからね。僕は君が焼いたパンが食べたかったんであって、君にパン作りを教えてもらうつもりじゃなかったんだよ。出来の悪い生徒で悪かったね。予習してくればよかったかな。」
「ううん、予習なんてしなくても私が何でも教えてあげるよ。私に訊いて。」
「この可愛い顔がまた腹立たしい。」
「いつもフライディがしてる顔と同じだと思うけど?」
 どう、と得意げな顔で見上げるキャットがあまりに愛らしくて、チップはカウンターに手をついてキャットを囲い込んだ。
「君がもっと大人で、ここが君の両親の家じゃなければいいと心から思うよ。」
「ねえ、パンのことで何かもっと知りたいことは?」
 キャットがチップの腕の中から上目遣いに恋人を見上げた。キャットの意図が誘惑にあるのか自慢にあるのか微妙なところだったが、どちらにしてもチップの答えはひとつだった。
「パンより君のことが知りたい、って言わせたくてやってるんだろ。小悪魔め。――『パンより君のことが知りたい。』」
 結局そう言わずにはいられないチップに、キャットが鷹揚に答えた。
「いいよ。何でも教えてあげるよ。」
 
 時間をかけたキスの後でキャットがゆっくりとまぶたを上げた。目が合った途端にチップがキャットのバンダナをすばやく引き下げ、キャットの目にかぶせた。
「この目が危険なんだ。」
「フライディ?」
 バンダナを上げようとキャットが伸ばした手を、チップが押さえた。そして再び最初からキスをやり直した。キャットは唇だけでなく頬や耳元に落とされるただの軽いキスに、その予測のつかなさに翻弄された。いつもならこちらから先にキスしたり、よけてチップを笑わせることだってできるのに、目を覆うほんの一枚の布がキャットを対等な立場からただキスを待つだけの頼りない身に変えてしまった。
 キャットが弱々しい声で訴えた。
「ねえ、フライディ。とって。」
「うん、後でね。」
「とって。」
「君の目は僕の心臓によくない。」
「これは私の心臓によくないのっ。」
 キャットが強く言い返し、チップがキャットの片手をぱっと放した。キャットは自由になった手で即座にバンダナをむしりとった。
 チップはキャットの頬に手を添えた。
「君を怖がらせた?」
「怖がったりなんてしてない。」
 瞳をうるませ、喉元まで朱に染まったキャットが言い張った。
「でも泣きそうな顔してる。」
「やめてよ。キスで泣くわけないでしょ。」
 チップがそっとキャットを抱き寄せて囁いた。
「可愛いロビン。意地悪してごめん。」
 
 計ったようなタイミングで玄関から鍵を開ける音がした。キャットが飛びのくようにしてチップから離れた。
「キャット?」
「キッチンにいる。」
 キャットの声にこたえてキッチンにやってきたのは、キャットの父、ジャックだった。
「いらっしゃい、チップ。」
「こんにちは、ジャック。」
 チップがにこやかに挨拶を返した。さっきまでのキャットとのやりとりの余韻を全く感じさせなかった。ジャックがキャットに向かって言った。
「生地は?」
「ホイロの中。」
 こちらはチップのようにはいかず、赤い顔をしたままでキャットが答えた。ジャックがホイロを覗いてひとこと言った。
「過発酵。」
「ええーっ!」
 キャットのがっかりした叫びを聞き流してジャックがホイロからトレーを取り出し、ゴミ箱を開くとトレーを傾けた。
「ジャック!?」
 チップが驚いて声を上げた。止める間もなく、チップが初めて作ったパンは焼かれもせずにその生涯を終えた。
「やり直し。」
「はい。」
 キャットは父のこういう指導に慣れていたが、チップがキャットを庇っていいわけをした。
「すみません。僕がパンのことを何も知らないからってキャットから色々教わっていたので。パン作りを目の前でみるのが初めてだったんです。」
 キャットの父、ジャックが穏やかな口調で答えた。
「きっとキャットは得意になって説明したんでしょう。この次のレクチャーは短めに、キャット。」
「次も見にくる?」
「パンの様子は気になるね。今度は発酵が終わる前に連絡をくれたら見に来るよ。」
 パンのところを強調するようにしてジャックが答え、キッチンの出口に向かった。
 
 出口で振り向いたジャックが不意にキャットにそっくりな笑顔をひらめかせた。
「それから二人とも、レクチャーもいいがこれ以上粉だらけにならないよう気をつけて。」
 口を開けた二人が何か言う前にジャックがさっと姿を消した。玄関のドアがばたんと閉まった。
 
 キャットとチップがお互いを点検して、それぞれシャツの背中に何度も抱き直した手がつけた白っぽい跡をみつけた。多分キスの途中で手をついたカウンターの打ち粉がついたのだと思われたが、それがいつだったか今となってはもう記憶も定かではなかった。
 真っ赤になったキャットが顔を両手で覆ってうめいた。チップがそんなキャットに明るく言った。
「大丈夫だよ。手の跡は背中だけだ。問題ない。」
「あるよ。パンのこと忘れるほどキッチンで何してたんだって思われてそう。」
「キッチンにいなかったらその方が問題じゃないか。僕が食べに来たのはパンだってことが証明できただろ。」
「ねえ?」
 キャットの声の調子が突然変わった。
「パンじゃないものって何?」
 顔を覆った指の間からキャットがまた危険な視線を送ってきた。チップが大げさに嫌そうな顔をした。
「出たな、小悪魔。答えは分かってるくせに。」
「言って、フライディ。」
 その嬉しそうな顔にほだされて――結局いつもそうなのだ――嫌そうな顔を続けられなくなったチップがキャットを抱き寄せながら答えた。
「美味しくなるまで発酵中の誰かのことだよ。分かったらそろそろ次のレクチャーもお願いできるかな、マスター・ロビン。」
 
 ジャックの忠告も空しく、キャットのレクチャーは今度も長くなり二人は更に粉だらけになった。パンの完成にはまだもうしばらく時間がかかりそうだった。
 
end.(2009/11/18)
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時系列続き(並列含む) →026◆Goin' to the Zoo
 
※実際には過発酵のパン生地も違うものに転用したりして食べられなくはないです。(味は落ちます。)
 
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